プロフィル

光平翁、文化10年(1813)9月9日現藤井寺市林にある、尊光寺の次男として誕生。
父親は生まれる前になくなり、8歳の夏、母親が逝く。

母親の実家は、八尾市福万寺村にある荘官原田家の娘である。尊光寺より、東高野街道を経て、福万寺村まで凡そ11キロ。
何度か訪ねたことがあるのだろう。25回忌が尊光寺でありその時のことが光平翁の日記に書き残されている。
歌を詠んだ「膝の上に我をいだきて養しけむ琴とるからに母を戀しき」と。

9歳の時、5キロ離れた藤井寺市野村にある西勝寺の養子になる
平田竹軒に漢学を教わる。16歳の時、西本願寺の学寮に入り、仏道に入る

2年後、先輩の大観を追っていき、二人で因明学を究めた。二人は別れたあと、光平翁は国学に興味をもち
伊丹に住む、中村良臣に教えをこう、そこにいた無蓋上人より、因幡に行き飯田秀雄に会えと。
師飯田氏は加知弥神社の神官をしながら国学を教えている。入門をゆるされ、次男の年平と莫逆の友になる。
師の勧めで、紀州藩で国学を教えている加納諸平に学ぶようにと紹介状を頂く。因幡を去る時、年平より
「伴林六郎光平」の名をつけてもらう。以来、伴林光平を名乗るうようになった。

師加納諸平に入門を許され、歌道と国学の知識に磨きがかかった。しばらくして、西勝寺に戻る。
浪華で知られた富商「よろず屋」の隠居、佐々木春夫がいて同門になる。歳は光平翁より、若い。

光平翁は、江戸に行きたく願っていたが、狭山藩の家老舟越外記が江戸に行くので、その付け人に加えてもらう。
江戸に着いた翁は、藩の長屋の一室に住み、市中を歩きまわり、国学の大家平田門を訪ねるが、入門料が払えず断念。
次に訪ねたのが、師伴信友の屋敷である。師伴信友は弟子をとらない。同門の士の扱いを受けた。
師匠の手元に、光平翁の実家より、両親のどちらが病気であることを知らされ、直ぐに帰るよう説得される

江戸を出ることになり、師伴信友より、光平翁に地元にある陵墓が荒れているので、
訪ね状況を知らせて欲しいと。去る前に歌を所望された。

詠んだ歌「伊吹山さ霧の底に旅ねし安の川瀬の音をきくかな」
「小薄(おすすき)の穂の上(え)の霧のとたえより峰の雲こそ現はれにけり」
江戸より帰った、光平翁は西勝寺に入らず、八尾の地にあるあれ寺に入る。

光平翁29歳、陵墓巡察にかかり、「河内国陵墓十七図」を師伴信友に送る。花園村に住む岩崎美隆
を訪ね歌会をする。翁は32歳になり、妻千枝を娶る。翌年、教恩寺に入寺し生活も安定してきた。

千枝の実家は、生玉にあり、兄は鍼灸師で千枝も鍼灸の技ができ、家計を助けた。長男が誕生、延丸と命名する
詠んだ歌「三十あまりやつ尾の椿つらつらにおもへは早き月日なりけり」
歌会も増え門人も150人余りで交流は広がる。時には、師加納諸平を陵墓に案内することもあった。

嘉永3年(1850)、浦賀沖に黒船がやってきたことが、幕末の動乱への引き金になった。
安政元年(1854)大阪湾にもロシアの軍艦が天保山沖入ってきた。光平翁も見に行ったであろう。
幕府の不甲斐なさを嘆く。翌年妻千枝が4人の子を残して逝く。光平翁は落胆。

光平翁は、勤皇の志が高まり、勤皇運動が活発になる中、京都にいくことも増え、八尾からでは遠い。今村家
の人々や、歌会を主催する方々が、奈良にすむことを進められ、文久元年(1861)八尾の地を去る。
法隆寺の近く、駒塚に住むことなった。中宮寺の侍講を拝命され、門主さんに歌の指導をする。
この頃、法隆寺の近くに住む、勤皇の志士、平岡鳩平を知り、勤皇活動を共にする。

文久3年(1863)光平翁は51歳。3月、山稜調査のことが天聴に達し「御沙汰書」を賜る。
光平翁は、益々勤皇への思いが強くなった。8月、孝明天皇の奈良への行幸が計画され、
これからの勤皇活動を高めるために、天誅組が結成され、一大勢力を作ろうと、行動を起こす。
世にいう天誅組の変である。光平翁もこれに参加したが、8月18日の政変で、天誅組の戦いは破れる。

光平翁と平岡鳩平は十津川村を脱出し奈良へと向かう、、大峰奥駆け道の険しい山登りを経て、
駒塚の家にたどり着くが、家族はいなくなっていて、会えない。平岡とも別れてしまった。
単独で富雄街道を北上するが、磐船神社の手前にある茶店で、奈良奉行所の捕手につかまる。
奉行所の牢に入ったのが9月26日、翌日の27日には牢室に机・硯・紙がおいてあり、
光平翁は、筆をとった。後に『南山踏雲録』と呼ばれる冊子の7割にあたる1万字余りを一夜で書き上げた。
そして、10月には京都奉行所に移され、審議は形ばかりで、罪状の認否もされないまま処刑された。
京都所司代(幕府)は光平翁が皇室と繋がる人物として、影響力を恐れ、刑の執行を早めた。

この日、元治元年(1864)2月16日六角獄舎で同志18名と一緒に斬首された
明治維新はこの4年後である。天誅組の行動は維新の魁と呼ばれている。
光平翁は、明治24年12月、特旨を以て従四位を追贈された。
大正3年(1914)教恩寺跡に地元の有志たちによって「伴林君光平碑」が建立された。
碑前で、50周忌を祀られた。

 君が代は巌とともに動かねばくだけてかへれ沖つ白波 光平

本ページを作成するにあたり、鈴木純孝著『伴林光平の研究』に書かれた記事を参考にしました。