伴林君光平碑

八尾市南本町にある碑は、大正3年秋、地元の有志の方々の寄与財により建立されました。

光平翁が叙勲された記念に地元のみなさんで碑を建てることを企画されたが、資金不足で断念。
その後、歿後50周忌に際し、再たび有志より発起され趣意書で基金を募ることになりました。
発起人6名、賛助員35名よりなる文書を配られ、予定の資金が集まり、建立ができました。
50周忌の式典も行われ、以来、地元のみなさんで碑を守っておられます。

裏面に刻まれた碑文の大意

君、諱(いみな)は光平、通称は六郎、家は世(よよ)、志紀郡林村尊光寺の住居たり。
考、諱は謙譲、君は其の第二子なり。少壮、出でて洛寧(らくねい)の間(かん)に遊び
儒仏を究め、因摂(いんせつ)に国典を修(おさ)む。後又伴信友の江都(こうと)に従う。
然るに宗主責(そうしゅせ)むるに其の放浪破規(はき)を以てし、帰任の急ならんことを促
す。君甚だ宭色(くんしょく)有り。信友、慰め諭(さと)し且つ嘱(しょく)して云う、
「倭河(いか)二州には皇陵星布(せいふ)す。而(しか)るに荒廃堙歿(いんぼつ)せり。
我、探討検覈(たんとうけんかく)せんと欲するの日、 久し。而して未だ果たさず。吾子(ごし)
其れ之を成せ」と。君、感憤して帰郷し再び緇衣(しい)を被(き)て周永と称し若江郡八尾郷
成法寺村教恩寺に住職す。此の地、実に其の址たり。君、状貌魁岸(じょうぼうかいがん)
音吐(おんと)鐘の如く、天資豪宕(ごうとう)にして小節に拘わらず。一裘一葛(いっきゅういっかつ)
(みずから)甘んじ、富貴にも翳(えい)せず、名器も巻かず、傾檐破壁(けいえんはへき)に書を
講じ月に吟じて晏晏如(あんあんじょ)たり。然りと雖(いえど)も其の皇室を説き大義(たいぎ)
論ずるや、凛(りん)として懦夫(だふ)を起(た)たたしむるの概(がい)(あ)りて、一意唯(ただ)
皇運の恢復(かいふく)を図る。間(ひま)有れば則ち風雨を冒(おか)して荊棘(けいきょく)
(ひら)き、山河を跋渉(ばっしょう)して聖蹟を探検し、之を旧記に攷(かんが)え、之を遺老(いろう)
に正し、遂に陵墓十七図を製し、遥かに之を信友に贈る。事、天閽(てんこん)に達し、特に
優諚(ゆうじょう)を賜う。君感激し益(ますます)報、効して国事に尽さんことを期す。是の時に方(あた)
り幕府は屡(しばしば)詔勅に違い、且つ外交措(そ)を失す。正論鼎沸(ていふつ)し朝野騒擾(ちょうやそうじょう)す。
君、大いに之を憂へ、志士を糾合(きゅうごう)し将に為す所有らんとす。会(たまたま)文久三年癸亥(きがい)の秋、
廟謨(びょうぼ)一決、車駕(しゃが)、南幸(なんこうして畝傍の山稜を拝し、而(しか)うして親しく
外夷(がいい)を攘(はらうの議有り。時に、藤本真金、吉村重郷、松本衡等(ら)(たがい)に謀(はか)り、
(さき)の侍従中山忠光を推(お)して盟主と為し、将に義を十津川郷に唱(とな)えて其の先を為さんとす。
君、身を挺して之に赴(おもむ)き、参画甚だ力(つと)む。然るに会薩(かいさつ)二藩、朝幕の間に
周旋(しゅうせん)し、廟堂の議(ぎ)動き、條公等(ら)七卿西奔(けいせいぼん)す。順逆欻交(くつこう)
雄図(ゆうと)(むな)しく敗れ、遂に幕吏の捕うる所と為り、幽囚(ゆうしゅう)月を閲(えつ)す。
其の獄に在(あ)るや、自ら其の挙を叙して南山踏雲録在り。元治元年甲子(こうし)の年二月十六日、
京の獄に斬らる。享年五十又二。空論横議(おうぎ)は儒生(じゅせい)の能(よ)くする所、悲歌慷慨(ひかこうがい
は壮士の喜ぶ所、草莽(そうもう)にして義を唱(とな)えてその徒を率(ひき)い、矢石(しせき)
剣を提(ひっさ)げて其の仁を成すに至っては、則ち吾(われ)之を忠正剛毅(ごうき)の士に見る。而して
君は実に其の人たり。明治二十四年十二月十七日、朝廷其の忠節を追賞し特に従四位(じゅうしい)を贈らる。
余栄有りと謂うべし。今茲(ここ)に郷儻(じょうとう)相謀り碑を建て名を勒(ろく)す。貞珉(ていびん
は萬古にして遺烈は千秋たらん。
                 大正三年十一月           松陰 大西啓太郎 撰
                                   銅柱 渡辺 信義 書